ごあいさつ

「実地医家のための会」は半世紀前、昭和38年2月以来、病人中心の医学、プライマリ・ケアを目指し、ひたすら互いの胸を借りあいながら、知的興奮集団として勉強し、行動してきました。
 昭和30年代、日本の医学界は明治以来の大学中心、学会中心の体質のうえに、専門各科の細分化が進んだため、医師患者関係は医師上位が一層強まり、病人は大きい疎外感を感じた時代です。
 このような医学界のなか、大学の内科に、「内科とは病人を全人的に、人間としてよくみることが最大のつとめである」ことを教えた教授、私の恩師、堂野前維摩郷教授がおられました。また、私にウイルス学を教えてくださった川喜田愛郎教授は、有名な著書「医学概論」で次のことを述べていました。
「現代の医学がもつ大きな危険は、人が病むという事実を、医学の型紙にあわせて裁断し、病人を病院の都合に従わせて診療する弊害を招きやすい点である」と。
 私はこれら先師の教えと、みずからの医療および人間にたいする心構えから、病人中心の医学建設のための研究会設立を呼びかけました。昭和38年2月のことです。
 そしてその4月、この会の活動を広く知ってもらうため、私と浦田卓先生二人で、当時まだ銀座にあった日本医事新報社の社長室に、梅澤彦太郎さんを訪ねました。
 当時はまだ45歳くらいだった私たち二人を、梅澤社長は快く迎えてくださり、そのときまだ日本医大を卒業されたばかりのご長男、信二さんを陪席させ、私たちのはなしをゆっくりきいてくださいました。
 そして私たちの抱負にたいし、「それは将来の日本医学界のため、大変大事なことだ」と賛成され、医事新報の紙面はいくらでも提供いたしましょう、とはげましてくださいました。
 そしてさらに、会の名前がきまっていなかったら、「実地医家のための会」という名前はどうだ、と提案してくださいました。
 一方、当時の日本医師会長は武見太郎先生でしたが、武見先生は基本の考え方として、私たちの病人中心、地域医療ということに賛成でしたし、梅澤彦太郎社長とは親しい間柄でありました。それで、われわれの会の幹部、原仁先生を日本医師会の常任理事に入れられたこともありました。
 しかし、すべてが順調ということではなく、当時の日本の内科学会の幹部の慶應大学の笹本浩教授は、「なにも新しい会をつくる必要はない。あんな研究会なら、内科学会の地方会で発表・討論すればよい」と反対の意見を述べていました。

 しかし、わが国の伝統的な町医者、開業医たちのこの「実地医家のための会」にたいする反響は大きく、一年たらずで会員が千名を超し、機関誌も隔月刊で発行する体制となりました。
 そして発足間もない昭和42年には、春日豊和先生のお力で、本会編集の「人間の医学シリーズ全10巻」を医学書院から出版することができました。
 また、昭和48年には厚生省がこの会の倫理性を評価したためか、「医事紛争研究班」を発足させるに当たり、私、永井を6名の委員の一人に依嘱しました。そしてこの研究班の同じ委員であった都立大学教授の唄孝一氏と、このとき以来の永い、また深い縁ができ、医事法学をプライマリ・ケアの重要課題とする端緒となりました。
 そしてなにより大きいことは昭和53年6月の日本プライマリ・ケア学会設立です。私たちは研究会として「実地医家のための会」、そして学会として「日本プライマリ・ケア学会」をもつことになりました。
 この学会設立に大きい力を発揮したのが渡邉淳先生で、渡邉先生と私と二人は、日本医師会会長の武見太郎先生を訪れ、経緯を説明し、第1回の学会での武見先生の特別講演をお願いしました。
 この一連の活動はいつも、日本医学会会長・森亘先生、日本内科学会会長・高久史麿先生、東京慈恵会医科大学学長・阿部正和先生などにご理解をいただいてきました。
 そのためか、昭和60年12月、日本医師会が生涯教育制度を発足させたとき、その制度をつくる委員会の委員長を私永井が、また委員8名のうち2名を「実地医家のための会」会員から指名されました。
 また、東京慈恵会医科大学をはじめ、いくつかの大学医学部で、学生にたいする「家庭医実習」の指導医を委嘱され、さらに総合講義として何人もの会員が、いくつかの大学で「医療の基本について」あるいは「ターミナルケア」その他の講義を行うようになりました。
 私たちがこれまでの足どりをしてきたその基本に、発足当時、病人の人間理解のため、「ことばの学習」を熱心にしたことがあります。これはお茶の水女子大学教授だった平井信義先生の指導によるもので、カウンセリングの方法論による学習でした。私たちはこの学習によって医師と病人の人間関係の基本を学び、目からうろこが落ちたことを実感しています。
 私たちのこの過去50年のあゆみにより、一昨年、日本プライマリ・ケア学会は日本プライマリ・ケア連合学会に発展するとともに、日本医学会の一つの分科会として承認をうけました。
 私たちのあゆみ、目指すプライマリ・ケアはあらためて申すまでもなく、病人ひとりひとりを、かけがえのない人間としてみていく、医学の本道であり、私たちの活動は医学のルネッサンスであります。そしてこの活動が、わが国の町医者、開業医の創意・実践ですすめられたこと、そしてそれがアメリカのミリス・レポート※注1よりも数年先立って活動してきたことは注目すべきであります。

「実地医家のための会」はこうして、わが国の医学の本道確立、プライマリ・ケア創立に大きく貢献してきました。
 したがって、これからさきは、日本の医学界にたいし、また、日本の国民にたいして、この医学の本道を一層、充実・発展させる責任をもつものであり、私たちはあらためてこのことを心に誓いたいと考えています。

※注1 ミリス・レポート:ジョン・ミリスを委員長とした市民委員会。専門家庭医の研修をはじめるよう勧告。これを受けて、1969年、アメリカに20番目の専門科として「家庭医療学」が誕生した。

永井 友二郎

永井 友二郎